カルマとかギフトとかマッサージとかストレッチだとか 言葉遊びに引きずられるように
現在の仕事をするようになって、さらにはこの歳になって実感することがある。
私はとてつもなく健康体だと。
肉体労働の一種であり、接客もするとなれば心も体もぼろぼろになりそうなものだし、
実際周りの人間はほぼみな疲れ果てている。
その中で、唯一何の病・虚弱的な要素がないのが私だと気がついたとき、「健康」という状態なのだと気がついた。
もちろん、今までに風邪も引けば、インフルエンザにもかかったし、誤診ながらもブルガタの疑いもあった。
それらが解消されるたびに、外の風に吹かれ、日差しを肌に感じ、喧騒に包まれ、外部からの摩擦に肉体へのストレスを感じない健康と言う状態に感謝を禁じえなかった。けれどそれはあくまでも自分のことだけで、周りと対比させて考えたことはなかった。いや、むしろ対比させていたけれど、酒が弱い=肝臓がよわい、緊張しやすい=汗が出るなどどちらかと言うとマイナス面だったような気もする。
医者にかかるほど体調を崩すでもなく、施術のし過ぎで指が疲労骨折するわけでもなく、ただひたすらに歩きたいように歩けて、動きたいように動ける。疲れはするが一晩寝れば大体快調まで戻すことができる。有り余るほどの体力はないが無理は利く。当然、そういった体調管理は時間があるから可能ともいえる。
そこで、この健康な状態であるうちに世の中に恩返しをしようと思った。恩返しなどと書くと、さも高い志を抱いているようだが、そうではない。
袖触れ合う縁があれば、疲れたその体を少しでも癒しましょうとその程度でしかない。幸い、今の私には健康の一助を担う技術がある。
それがマッサージだ。ここで使う「マッサージ」は治療の意を伴う医療用語のそれではない。俗に言う「体を揉み解す技術」を指しているが業界の人間でなければどうでもいいことだろう。まだまだ習熟することは山積みだけれど1000人を超える人の体をほぐし、技術的にも安定してきたからこそできることだと思っている。「
けれど、やり方、場所など整理しないといけない事柄もある。
例えば、施術ベッドに関して。
今の施術スタイルは膝くらいの高さのベッドに乗った人間をほぐしているのでそのベッドをどうするか。なくてもできるし、ないほうが移動も場所も選択範囲が広がる。けれど、力加減が弱くなる、いつものように施術できないなど技術的なデメリットもある。
次に場所。
基本は呼ばれれば行くというスタイルになるのだろうと今の時点では踏んでいる。そこがどんな場所かはわからないが、一畳のスペースもあれば十分だろう。
さらには、ターゲットは誰か。
特段大きく広くやりたいわけでもないし、細々と手の届く範囲でできればいいとは思っているが、今は色々と拡散する方法もあるのでそれらをなんとなく使ってみたい気もする。BASEにレターポッド、ツイッターにFB、LINE@、インスタグラム…。どれが一番使いやすいか。少し吟味した感じだとお店をするわけでもないし、言葉に価値を持たせたいわけでもないのでBASEとレターポッドはないかな~なんて考えている。めんどくさいから、手軽にツイッターでアカウント作るくらいが軽さ的にはちょうどいい気もしている。なのでとりあえず、ツイッターのアカウントを作ろう。アカウント名などに頭を悩ますのも嫌なので…(ここで考える)、嫌なので(でも、出てこない)…。
まぁ、これを書き終えてるくらいには思いついてるだろう。
一応、最後にそのアカウントを載せておくので体験してみたい人は連絡をいただければほぐしに行きます。
と、ここまで書いてみてどうだろうか。
書くことに飽きてとりあえずやってみたい段階になっているのかもしれない。
自分の鉄火は冷めやすい。
声が生まれる―――声とムーヴメントのワークショップ備忘録
先日、「Voice Emobiment in Tokyo ー声とムーヴメントのワークショップ」に参加した。声を出すこと。動くこと。感じること。聴くこと。それらを味わいつくす凝縮された180分。書くことでどのくらい追体験ができるのかはわからないけれどできる限り書いていこう。
体は楽器
場所は六本木ヒルズに程近いとあるお寺の本堂。あいにくの雨にもかかわらず集まったのは10人。簡単な自己紹介を終え、本尊見守る中、ワークは始まる。
まずは足の外側を平行にして立ち、かかとから根っこが生えていることをイメージしつつ、膝を緩めて体全体を上下する。体のこわばってる部分があるとその部分で振動が止まってしまう。硬い所に意識して、体全体を緩めていくイメージを大切にする。呼吸は口から。
―――フッフッフッフッフッフッフッ
そこに「音」を足していく。声を意図して出すのではなくて出てくるように。体を揺らして吐き出す空気が喉に当たって、掠れて「あ゛ぁっ」という「音」になる。
さらに、体のあちこちが空洞になっているようなイメージをしてそこに響かせる。足先だったり、すねだったり、ふともも、おなか、胸、のど…。響かせる場所で「音」が変わる。下の方なら低くなり、上の方なら高くなる感じがした。
体の持つ楽器の要素を強く意識した。
「声」が生まれる
主催者のseshenさんいわく、現代人は自分の「声」に対してコンプレックスを持っている人がとても多い。けれど、それぞれの「声」は本当は素晴らしいのだと。だからこそ、それを知ってほしい感じてほしい楽しんでほしいという理由でこのワークショップを行っているという。
ここまでのワークでは自分の内側からもれ出てくる「音」を体の内部に響かせた。私はそれを「声未満」だと感じていた。
まだ、呼吸の延長線上。まだ、こすれた摩擦音。まだ、そこに意思も意図もない。
その「声未満」の「音」を体内部に感じるとかすかに「声」がうまれる予感がした。そこには良いも悪いも、好みもない。「音」は体という「楽器」が奏でる唯一無二の音色。「音」を発し、響かせ、味わい、感じる。そこから生じるのは発声への衝動。私は「声」の誕生を待ちわびていた。
次のワークへ入る前に「声」の出し方の説明。
・自分の中心軸を意識する。
・背中(背面)、後頭部(+腰)を意識する。
・大地を響かせるように。
・声を響かせると言うことは自分の体をマッサージするということ。
・口から出る(飛び出しちゃうような)声は出して気持ちよくないし、相手に届かない。
・ちゃんと中心軸から声を出す。大地とつながってる。
・スペースを与える(相手との距離感だったり、話すスピードだったり)
・3つのキーワード
○プレジャー:快感を感じる。自分の声で自分をマッサージして癒すことができる。
○ブレス :声域の延長線上にあると思う。
○オープンボディ:体を開けば開くほど声を出すのが楽しくなる。
ここで簡単なワーク。
・体を左右に揺らして、みんなと目を合わせる。
・体を回して、下に行ったときに吐く、逆回し。
・体を前後上下に揺らして、「ひょおおおおおおお~~!」と奇声だすのを繰り返す。
・手のひらに口がイメージ。
・その口から呼吸するイメージ。
・声を出すのではなくて 息が音になる。
そして、自己紹介。二回目。色々なイメージを重ねて声を出していく。
―――大地に根ざしているようなイメージ。
―――両手から声を出すようなイメージ。
―――おなかにも口があるイメージ。
―――足の甲にもおっきな口があるイメージ。
―――大地に紹介するようなイメージ。
意識したイメージがそのまま声に乗る。全部がそれぞれに個性的な「声」になる。
「どんな風に?」と聞かれれば、「あなたのイメージどおりに」としか答えられない。きっと、上のイメージがピンとこない場合はピンときていない「声」が出るのだろう。
「場」との一体感
馬に乗っている人はお尻でコミュニケーションをとっていると言う話を聴く。大地に自分の声のバイブレーションを伝えると大地をマッサージしてるのとおなじ
(自身の本質につながるように声を出す)。
そしてワーク。ペアになって、いろんなところに口があってそこから声が出るような感じで声をだして、好きなように動いていく。サポートする人はそれに合わせて動く(動かなくてもいい)今度はみんなで一斉に声をだし、動いていく。
感想のシェア
やってみたいワークのテーマ募集。
・自信を持てるような声の出し方を深めたい。
・声のバリエーションを増やすようなワーク。
・自分だけでなくてみんなの声の響きを味わいたい。
ここで「声のバリエーションを増やすようなワーク」だけはseshenさんが簡潔明瞭に答えを示してくれた。それは本質につながると言うこと。鳥の声を出したかったら鳥の声を真似するのではなくて、鳥の本質につながること。
『え?鳥の本質って…』と心でつぶやく。
すぐにseshenさんが実践してくれた。言語化できないような音が耳に飛び込んでくる。それが小鳥のさえずりに変わり、刻々と流れる時間を可聴化するようにさえずりの表情が変わっていく。さらにはその小鳥がどんな場所にいるのか、朝なのか昼なのか、イメージが飛び込んでくる。その時感じたのは森の中にいるような錯覚。
少し空気の冷たい朝、もやが木立周りに漂い朝日がそれらを抜けて地面を照らす。まだ真っ暗な部分が森には残されていて、そちらから聴こえる声は何ものかわからず不気味さを覚える。一方ではさわやかな朝を向かえ追いやられる闇は粘りを持って森の片隅に張り付いてる。そんなイメージ。
その世界に入り込んで、「鳥の本質って何ですか?」と聞くのはやめた。おそらく、自分が真摯にその対象と向き合わなければわからないから。向き合うことでしか理解できないことだと感じたからだ。
そして短い時間の森林浴を済ませた後は名残惜しくも最後のワーク。
ワーク
一人の声の響きに合わせて周りの人も合わせて声を出し、誰かが声を変えたらまた、
それにあわせて声を出していく。みんなの声が音楽になっていく。声の響きが空間とその場にいる人を包んでいくような印象を受ける。流れる時間と声と人と感情とが渾然一体となった場を感じる。
次は歩くきながら声を出す。まずは背面と腰を意識して、最後は胸から光があふれてるようなイメージで。ここで感じた心地よさは本当に興味深かった。声を出し、イメージを重ねることでこんなにも感じるものが多くなるのかと言うことに。
みんなで円になって、感想を二週。
円になって『パッ!』『パァ~』などと声を発して受け渡ししていく。(背面意識)
気を抜くと声は届かない。ちゃんと自分軸を意識した声が出せるようなワークだった。
こぼれるような声ではなくて、きちんと相手に届ける。時にはぶつける。時には放る。
意識することで声は変わる。その瞬間の自分も変わる。声こそすべてだと思ってしまうほどすべてがそこにあったような気がした。
さて、ここまでぐだぐだと書いてきたので、締めくらいかっこよく決めたいなと思ったものの、『seshenさんサイコーっす!!参加者のみなさんめっちゃやべぇっす!!』程度の感想しか出てこない。笑。まぁ、それもよしとしよう。なにせ、こんな暑い夜だ。ビールがすすむに決まっている。
seshenさんはまた年末に日本へ来るらしい。今度はどんなワークショップになるのかが楽しみだ。
サンタクロース未満(2016/12/25のこと)
昨年のクリスマスに『Pay It Forward』をやってみた。
ずっと書こう書こうと思っていたが気づけばひと月過ぎてしまった。
書けなかった理由はただ一つ。結論が思いつかなかったら。笑。
『Pay It Forward』って何?と言う方は下の記事を。
簡単に言えば、カフェなどで多めに支払って、おつりは次の人のために使ってくださいとお願いする。『恩送り』や『先払い』と言ってもいいだろう。
クリスマスの日に寄ったカフェで事前に料金が支払われているなんて、なんて素敵なプレゼントだろう!!
そのアイディアに興奮した私はまずやってみようと思った。
どうせやるならかっこよく、スマートに。
では、スマートな『Pay It Forward』とは?と考えた。
この時点でもうすでにスマートでないのは目を瞑っていただきたい。
① 台詞
いざ、支払いを終えて『Pay It Forward』をお願いする際、なんと言えばスマートなのか。
パッと思いつくのは、
『あ、おつりは、次の人に使ってください』だ。
が、これではシンプルすぎてピンとこない店員さんがいぶかしがる可能性がある。(おそらく殆どの人は不審に思うに違いない)
かといって、おつりをもらう直前で、
『そういえば、アメリカでおつりを次の人のコーヒー代に充ててくださいっておごる行為がブームなんですって!私もやってみようかしらね。うん!そうね。そうするわ!お願い。』
なぜかおばちゃん口調になってしまったが、それほどスマートさとは程遠いというのは感じ取ってもらえるのではないだろうか。
なので、一番初めに挙げた台詞だけを告げ、店員さんが混乱した場合のみ説明を加えるという手法で望むことにした。
十中八九、店員さんが困るだろうが、何らかの奇跡を期待することにしよう。
② お店選び
幸い最寄の駅にはスタバがある。上の記事でも行われたのはスタバだし、スタバの店員さんはスマートな方が多い印象がある(勝手なイメージ)ので、第一候補。
しかし、自分の使う出口からは少し離れている。
クリスマスの日は朝から遠方に行く予定があったので、出来れば近いところがいい。
けれど、これらの店舗で先払いをした場合、断られる可能性が高いのではないかと踏んだ。
なぜならば、それらの店舗は会社っぽいイメージが先行してしまい『遊び』がないように感じる。
仮に先払いをお願いした場合、
『困ります』『店長を呼んできます』『ちょっとそういうことは会社的にNGなので』など言われるのではないかと想像してしまい、ちょっとやりづらい。
残るはスタバと同じシアトル系カフェのタリーズ。
上記のカフェに比べればまだ『遊び』があるような気がする。
もちろん完全な主観でしかない。困るかどうかはそのときの店員さん次第だろうが、ここは私のイメージのタリーズに賭けてみることにした。それほど、私の中のシアトル系は洗練されているイメージで占められている。
③ 金額
さて、次は幾ら払ったらスマートか?を考えてみた。
記事では先払いを連鎖させていくような感じだったのでコーヒ1杯分、500円くらいだ
ろうか?
が、今回の場合はあくまでも『クリスマスプレゼント』なので連鎖は考慮しなかった。
たとえば、シアトル系のカフェだと単価が高い。
当日、自分が飲みたいものが600円だったとする。
1000円で払った場合、400円の先払い。次のお客さんが700円のフラペチーノかなにかを頼んだ場合、300円の持ち出しが発生する。
当然、半額以上も知らない人に出してもらってるなんて戸惑いながらもうれしいことだろう。
けれど、そこにスマートさがあるかと言えば『ノー』だし、プレゼント感もない。
と言うことは、1000円だと足りない場合がある。
では、そこで、2000円だと仮定してみる。
けれど、この考えはすぐに打ち消された。
自分の支払いが600円なのに1000円2枚で支払う異常さをいくらシアトル系といえども認めてはくれまい。2000円札を持っていれば別だが、あいにく持ち合わせがなかった。
と、くれば、次は5000円札と言うことになる。
悪くないし、かなりの高額だ。しかも数人分の支払いが可能。
これでいい。これでいこう。
そう思ったのもつかの間、
『ケチって5000円札にした』という感がぬぐえない。
もちろん、何も知らない人からしたら
『たまたま』財布に5000円札しかなかったからそれで支払ったという『自然』な行為にしか見えないだろう。
しかし、私は自分の心を知っている。5000円札にした理由はケチったからだと。
これがクリスマスでなかったら、この金額は選択しなかったに違いない。
しかし、時はクリスマス。もしかしたら、相手のいない寂しいクリスマスを過ごす人がちょっとした温もりを求めてこのカフェにやってくるかもしれない。
そのドラマが今回は10000円札でいくという決意をプッシュした。
そして、クリスマス当日
その日は遠方でアースオーブンを作るイベントがあったので朝は比較的早かった。
飲んでいる時間はないのでタンブラーに入れてもらう事にした。
駅近くのカフェは7時にオープンするところも多く、タリーズも類にもれず、私が訪れる時間にはばっちしオープンしていた。
レジ前にお客はいないし、後ろからもすぐに誰かがくるということもなさそうなくらい閑散としていた。
レジに立つ店員さんは、大学生くらいの男の子。すらっと背の高い頭のよさそうな子なので私は安心した。(この子ならきっと…)
いつもはソイラテを飲むが、タンブラーに入れてもらうと洗うのが面倒そうなので、普通のコーヒーを注文する。
その時が近づく。
タンブラーにコーヒーを注いで戻ってくる店員さん。
『うん百えんになります』
すっと差し出す10000円札。
『10000円お預かりします。おつりが、、、、』
(来た!!いまだ!!)
「あ、おつりは良いです(ドキドキドキドキ)」
『へ?でもそれは。。。』
「次のお客さんの支払いに使ってください(ニッコリ)」
『え、でも、、、あ、』(と、奥にいる先輩に不安げなまなざしを送る)
ここで、先輩が出てくると断られるかもしれないと思い、
「じゃ、、、」
とそそくさと退散。
追ってくる気配(別に悪いことをしてるわけではないが、何より恥ずかしかった)はなかったので、おそらくそのまま先輩に相談しにいったのだろう。
その後、おつりがどう使われたのかは知らない。
支払った後の事はものすごく知りたかったし、なんなら、変装してお店に行って次の人がどんな反応をするか見たかった。
もしかすると、そのまま店員さんが懐に入れてしまったかもしれないし、落し物として処理してしまったかもしれない。
なんとなくツイッターで検索してみたが、特に該当するような呟きをしている人はいなかった。
良いことをしたような、そうでもないような。
結局自分はそのお金で人がどういう反応をするか見たかったのだと思った。
だから、その反応をみれないまま店を後にしてしまうことで、『対価』をもらっていないと感じもやもやしたのかもしれない。
しばらくの間、おつりの行方が気になって仕方なかった。確かめるつもりもないけれど、自分の執着の糸が切れていないなと感じていた。
別にもったいないことをしたと後悔しているわけではないし、勢いでよくわからないことをしてしまったと落ち込んでいるわけでもない。
ただ、まったく初めてのお金の使い方に戸惑いが隠せないだけなのだろう。
これが1000円なら、すぐに忘れてしまっただろうし、5000円でも良かったのかもしれない。自分の行動原理が楽しそうなことをするというのならそこから逸れた行為でもない。ただ、これじゃ、つながらない。続かない。
もし今年もやるとしたら、今度はお店に根回ししておこうか。
その上で、レジに一番近い席で何が起こるのかを見てみたい。
でも、次は2000円札を用意するようにしよう。
自分の1日を50円で売る男
去年の暮れ、自分の1日を50円で売るホームレス芸人の小谷氏に会う機会が二度あった。
一度目は自伝を買うために鶯谷へ行った時。
ニ度目はFacebookで偶然見つけた小谷さんを50円で購入した方が開いたお話会に参加した時。
二度目に参加した理由はプレゼント用の自伝を購入するためだったが、残念ながらも売り切れ。
しかし、とても楽しく、刺激的だったその会のことを覚えてるだけ書いてみようと思う。
その筋では有名な小谷さんとのお話会ならさぞや人が集まるだろうと思った12月某日、開催場所のヤフーlodgeに行くと、参加者と思われる人は1人も見受けられず、さらには主催の方もいないという謎の孤独感を味わうことになる。
主催の方とメッセンジャーで連絡を取ったところ、小谷さんを迎えに行っているらしい。
聞けば、机は確保してあるのでそこで待っててほしいとのこと。教えられた1番クリスマスっぽいテーブルを探すと、ありました。1番クリスマスっぽいテーブル。
ヤフーlodgeはコワーキングスペースなので基本ビジネス寄りのことをする場所にも関わらず、そこのテーブルはまさにクリスマス。
写真を撮らなかったことが悔やまれます。
そこで待つこと、小一時間。
やーーーーーーーーっと2人が登場。
やっと、メンツが揃いました。
あ、そうです。参加者は小谷さん、主催者、自分の3人だけです。笑。
(ちなみに待っている間に、噂には聞いていたうんちマンさんと偶然会いお話させてもらい、会の途中では数日前に小谷さんを買われた?方がまたまた偶然居合わせ軽く挨拶)
さて、じゃあー、何を話しましょーか?と。笑。
何にも決まってない。
で、主催の方は小谷さんがどうして今みたいになったのか聞きたいからそれを話してほしいということになり、自伝を読んだ自分も本人の口から聞けるのが楽しみだったのですが、そこで小谷さんから驚きの一言が。
『なんやったけなー。。。。残間さんの方が本読んだばっかだからよく話せるんじゃないですか?』
え?
本人の前で、話すの??本人いるのに?
と、頭が混乱したまま、記憶が曖昧なとこは小谷さんに確認しながら話し始める。
なんでホームレスを始めたのか?
なんで50円なのか?
主催の方から出てくる質問に、本人を差し置いて答え、本人にちょこっと修正してもらう。
そこで出てきたワードをまとめると、
・お金に執着しない。
・楽しく生きる。
・楽しい方を選択する。
→お客さんから50円とは別に頂いたお金を持っていても仕方ないので、ホテルの良い部屋に泊まる。そのお金で数日切り崩して暮らしていくこともできるけど、面白くないから。と言うような感じで小谷さん。
お金を持ってても仕方ないって、衝撃でした。
だって、お金ですよ?お金!みんな大好きなお金!あったらあっただけ幸せになれそうなお金を持ってても仕方ないって……。
そのお金との接し方には次のワードが重要なのかなと。
・必要なお金は入ってくるという確信。
クラウドファウンディングを成功させ、日常では働かず50円で自分を売る日々を続けること約3年。その間に結婚し、結婚式を挙げ、イベントを立ち上げ、3キロ?も太ったという小谷さん。その言葉から連想したのは自由。お金や肩書き、地位や名誉、暮らす場所や手段それら全てを身につけていない自由。
守るもの安心のために身につけておきたいもの、あれやこれやと考えていつの間にか背負うものが重くなり、身動きが取れなくなりがちな人が多い中、この人はそれらを手放して、でも、すぐ近くに欲しいものはあるという状態に生きている。しかも、楽しいことしかしないで。
・好きなことをやってみる。
・借金は自分の器。
・自分の気持ちを大切にする。
もっともっと話したかったけれど、次の予定があると言う小谷さんを見送り、主催の方と2人になり、先ほどの挨拶した方がまだ残っていたのでその方の作業の邪魔を承知でその方のテーブルに移動。
そこでも凄く面白い話を聞かせてもらい、終いには、
主催の方に市議になれば?と極々自然に挨拶でもするかのように勧めていました。笑。
この後、lodgeも終了時間になり、この日はお開きとなりました。
思い出しながらここまで書いて、しみじみ、人というのは自分らしく楽しく生きるのが当たり前で自然な姿なんだなと思いました。